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イチロー(本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、英語表記:Ichiro(Ichiro Suzuki)、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手。ポジションは外野手(右翼手、2006年後半より中堅手)。
驚異的にヒットを量産することから「安打製造機」と称される。
野球との出会いは3歳の時、父親がおもちゃ代わりに買い与えたバットとボールをいたく気に入り、外に遊びに出るときは必ず持っていった。すでにこの時期から、父親による英才教育は始まっており、右利きのイチローに左バッターとしてのイロハを教え込んでいたという。[1]小学生時代、勉強が好きではなかったが、成績が上がると欲しいゲームソフトを1本買ってもらえるため、それが欲しいがためだけに勉強していたという。豊山町のイチロー記念館には、イチローが努力で勝ち取った「ポパイ」や「ゼビウス」といった当時の戦利品が展示されている。[1] また小学校からの帰り道では必ず県道62号を渡る必要があったが、近くに名古屋空港があり、信号待ちの時間が長かったため、走っている車のナンバープレートを見て一瞬で足し算をやっていたという逸話もある。
通っていた小学校では4年生から部活に入れたのだが、野球部が無かったため、小学3年の時に豊山スポーツ少年団野球部に入部。父子二人、死に物狂いで臨んだ個人練習が功を奏し、小学4年生で4番エースになった。そして、入部から2年後、スポーツ少年団全国大会でベスト8に輝いた。[1]幼少から使用していた練習場が手狭になったため、バッティングセンターでの練習を導入。小学校3年生の時にはすでに100キロの球を打ち、5年生で110キロ、6年生になると120キロを打っていた。中学校に入る頃には既存のマシンのスピードに満足できなくなり、バッティングセンターに相談して140キロを出せるようにしてもらったが、それでも満足できずにベースを2メートルほど前に移動させて推定150キロ近くの球を打ち返していたという。[1]この時代には元中日の田尾安志にあこがれ、「円月打法」と称されるその打撃動作を盛んにまねていた。[2]。
中学校で念願の野球部に入部。朝の7時から早朝練習に励み、放課後も6時半まで練習をした後に、一度家に帰ってからバッティングセンターで200球以上の打ち込みを毎日欠かさず繰り返した。その努力が実り3年生でエースピッチャーに抜擢され、全日本少年軟式野球大会でチームを3位に導いた。その頃のイチローは「僕は4番バッター以外本気でなんて投げてないよ」と豪語していた。成績も優秀で、200人中の1割以内に必ず入っていたという。[1]
中学卒業後は高校野球の名門校である愛工大名電高校に入学。高校当時の野球部監督に「言ってくれればいつでもセンター返し出来ます」と答え、監督が「新入生のただのアピールだ」と思って当時のエース相手にバッティングをさせたら本当に打ちまくり、驚愕させた。[要出典]。1990年に左翼手として夏の甲子園に、翌1991年には3番投手として春の甲子園に出場。それぞれ一回戦で敗退した。高校通算打率は5割5厘、高校通算本塁打は19本である。3年の大会では記録は残っていないものの当時の野球部監督によると、7割近い打率だったという。[1]高校時代、打者として評価されていた中、唯一投手として評価していた地元の中日ドラゴンズのスカウトも視察に訪れたが、投手としての評価が低かったため獲得を見送った。
日本プロ野球
1991年、日本ハムから「逆指名していただけませんか」との打診もあったが[1]、ドラフト4位指名を受けたオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団した。
入団後は2軍で首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの一軍首脳陣から振り子打法を否定された事に対し我流を貫き続けた事に加え、足の速さを生かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄投手からプロ初本塁打を放ったもののその日に2軍降格を言い渡されるなど、1軍に定着することはなかった。
2軍生活を余儀なくされていたイチローは、2年目の秋に河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。
1993年のオフにハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズと言うチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打った。地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれている。[3]
1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の鈴木から「イチロー」に変更させ(同時に佐藤和弘も「パンチ」に改名させた。これは登録名をニックネーム等に変更することが珍しかった当時、マスコミにイチローが珍しがられるのを防ぐため、同時に改名「パンチ」に注目が行くようにしたもの)、1軍の2番バッターに抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
1995年、前半戦を三冠王で折り返す。最終的に本塁打数は小久保裕紀に抜かれたものの、主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」。勝負強さやパワーも証明した。また当時のパ・リーグ記録となる18死球を残したほか、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。ちなみに本塁打王の小久保は28本塁打、イチローは25本塁打で、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占にあと一歩であった。
1996年9月23日、日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。この年は開幕から前半戦まで1番打者として出場していたが、後半戦から打順を変更され、3番に固定。同年シーズンは固め打ちが目立ち、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。
1997年から1999年までは主に3番打者として出場。1997年6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の対日本ハムファイターズ戦で下柳剛(現:阪神タイガース)から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。
1999年のシーズン前に星野伸之、戎信行と一緒にシアトル・マリナーズの春季キャンプに参加した。[4] そのときに食べたスペアリブに中り、結果が思うように出せなかった。それからは口に入れるものは疑うようにしている。[5]
1999年4月20日、対日本ハムファイターズ戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦では松坂大輔から通算100号本塁打を打った。同年はオールスター戦の時点で19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハムファイターズ戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年4月から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位・プロ野球歴代14位の763でストップした。
2000年は開幕から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日だったため、この試合終了後、イチローは帽子を取ってファンへお別れの挨拶をしている。
1994年から2000年まで7年連続首位打者獲得を達成。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。
(以上、ウィキペディアより引用)
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