2010年2月 1日

朱子政治家

1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを拒否して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。

1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。

1179年(淳熙6年)からは南康軍(軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を拒否し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。

1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州は現在の浙江省臨海県)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。

これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

中国の宋代の儒学者、朱子は政治家としても大変活躍しました。

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